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富裕層ビジネス研究会という講演会に招かれて講演をしてきました。どういう幼少期を過ごしたか、学校に行かなかった研一について、丸紅時代の思い出、NYで過ごした日々、女性の自立、癌闘病と「日和」開店、お店で培った人脈と今の生き方、幸せに生きるためのメッセージ、と盛りだくさんの課題をいただき、全部話せたか不安は残るが、サロン形式の会場で楽しく皆さんの顔が近くにあったので、お互いにお一人お一人に向かって話せたような気がしました。感謝。
今日新横浜の病院に行くために朝8時代の日比谷線、東横線、横浜線に乗った。全部逆方向だと思っていたが甘かった。久しぶりにラッシュアワーを体験しました。中目黒から横浜に向かう東横線は正しく反対ですよね。それが満員なのです。菊名から新横浜までの一駅、これも身動き出来ない混みよう。普段パソコンに向かって原稿を書いているなんて何て贅沢なのでしょう。八丁堀の駅前にはタバコ注意おじさんがいて、やっとこさっとこ駅から地上に出ても「もし、もし、歩きタバコ注意」なんて、何と可愛そうな出勤風景でした。
”4声ポリフォニーによる鎮魂合唱曲”この曲は佐村河内守さんの「核廃絶と平和の尊さを語り継いでほしい」という願いから生まれた合唱曲。初演に向けて猛練習中。「平和記念公園から世界に向けて発信される平和を祈る楽曲を多くの人に聴いてもらいたい」と。
指揮 榊原 哲
出演団体 広島少年合唱隊、広島ジュピター少年少女合唱団、
広島ジュニアーコーラス、崇徳高等学校=佐村河内出身校
呉武田学園呉港高等学校
5月31日 15時から 原爆ドーム・対岸広場 無料
佐村河内守さんからのメッセージ この合唱は6分の短い曲だが、今回は鎮魂の祈りをこめて12分にし全ての声を「ア」に託してもらう方法、すなわち母音唱法での決心をした。声のみに集中した祈りの深さが原爆死没者の方々に届くことを望んでいます。愛する広島のために平和への祈りを捧げていきたいです。
先日亡くなった忌野清志朗という人を私は知らなかった。まず、何て読むのか名前さえ読めなかった。1970年にデビューしたと報道されていたが、私は’72年まで5年間ニューヨークに住んでいて、あの当時のことはすっぽり抜け落ちているが・・・ファンが居たら叱られるかも知れないのを覚悟ですが、あの歌、歌詞、歌い方、お化粧、全く私には分からない。妹に「あの歌手何処が上手なのか、声を張り上げて何を言っているのか分からない、だいたい音楽になっていない」といったら、「そんな感想を言うこと自体がもうおばさんなのよ」ああいうのは全部をひっくるめて「いい」と思わなくてはいけない、と手厳しい。先日の葬儀に4万2千人が詰め掛けたと報道されていたが、本願寺で行われた尾崎豊の葬儀を思い出してしまいました。あの時も勝鬨橋まで行列が続いていましたが・・・・まだ、先日亡くなったシャンソン歌手の高英男さんのお化粧の方が分かりやすいです。
左の写真は飯田容子さん、今回財団法人ハミングバードを立ち上げ今日たくさんの方を招いてお披露目の会が開かれた。”母と子と未来と光プロジェクト”と銘打って素晴らしい理念のもと仕事もチャリティーもしっかりなさることでしょう。応援しています。
右の写真は今日男性ばかり7人のお客様をしたときの料理です。我が家での定員一杯でしたが、若い人達との会話は事の他楽しかった。8時にBBTのライブCS放送が始まりみなさんと一緒に観ました。メニューは鯛とカレイ、平ら貝の昆布締め、春の野菜の煮物、ポテトサラダ、野菜スティクサワークリームのデップ、肉じゃが、枝豆、切り干し大根の梅酢漬け、最後にサフランライスのカレー。お一人マイ箸を持ってきていて驚きました。時代ですね、偉い。
私が小学一年生の時のセピア色した賞状が出てきました。以前白楽の母が3階にあるあなたの大事なものを持って帰りなさい、と言われていて、卒業証書の入った筒を持って帰った。今日部屋を片付けていたら、何と私と娘のが出てきた。私がまだ私達家族が九州にいた時、一年、二年の賞状、笑えました。皆勤賞です。福岡県若松市若松小学校へ行っていたらしい。今でも時間や約束は守る性格だが、あの当時から真面目だったのですね。確か研一はたいていの科目を表彰状をもらうほど「右総代」でしたが、私はついにそういう日は訪れませんでした。勉強できなかった分毎日せっせと学校に行っていたのですね。人はどこか取柄があるものです。今では若松市というのもなくなり、北九州市若松区になっています。亡き父が「勉強ができるより、時間や約束を守る人間は世の中に出ても勝ちだよ」と慰めてくれたのか、諦めてくれたのか・・・優しい父の言葉を思い出してしまいました。
昨年、世に言うゴールデン・ウイーク中、母と妹の3人で軽井沢に滞在中「よーーし、ダイエットするぞ」と決心した。二人に「続きゃしないわよ」という冷笑のもと、私はノートに食べたものを記録する方法を採用した。54キロあった体重を47キロまで落しました。これはひとえに毎日記録し、1500キロカロリーを守ったおかげでしょうか。体重が多かったときは朝、手先がしびれていたのですが、最近はまったくその気配すら忘れてしまうほど。体が軽くなると億劫という言葉が私の頭からなくなりました。この体重をどうすれば守れるか、記録はずっと付けていく癖をつけて、その日のスケジュールも日記のように書いておく。もう5冊目になっています。メタボ改善指導士の資格も生きています。
5月5日端午の節句ですね。うちは男の子が居ないので、特に何かすることはない。ただ、我が家の玄関にはいつも鯉のぼりの絵が掛けてある。 この絵はNYの48丁目のアパートにあったものを持ち帰り、額を伊東屋で作り直したもの。今日妹と東白楽の「徳の湯」へ行ったら、何と露天風呂に菖蒲が浮いていた。そうでしたねぇ、柏餅と菖蒲湯でした。こういう習慣も何となく遠い昔になってしまいました。テレビは連休の高速道路の渋滞話ばかり、家にいる私は中央高速小仏トンネル30キロ・・・なんてニュース、何度も経験しているので、「あれ?もっとじゃない」なんて涼しい顔して、この時期東京のいるのは良いものです。550円の(サウナつき)銭湯にゆっくり入って、菖蒲湯とても安らぎました。
世の中連休、連休、繁華街の混雑振りも半端じゃないです。今日も打ち合わせで出かけたついでに、自由が丘で途中下車してみた。母の日のプレゼントを買うのが目的だったが、駅前でハワイアンの踊り、ここも大勢の人で溢れていた。買い物をする気がなくなり、ただ、人混みを歩いていたら、カレーうどんの店を見つけました。きしめんのような平麺にカレー味の濃度があるスープ、これにご飯がついてきしめんのスープを掛けて食べる。隣の人が食べていた桜海老のかき揚げが美味しそうだったので、単品でお願いした。これが美味しいのなんの。静岡で名物だと言われて食べた時より美味しくて・・・新しい発見でした。娘が中学、高校の頃はここ自由が丘でピアノのお稽古をしていたので、私は1時間時間をつぶしていたので、知らないところはない、と言えるほど”自由が丘通”でしたが、今日歩いてみて、まったく昔の面影はなくなっていました。
何なの?と言うほど人、人、人。築地の有名店「大和鮨」の前に並んでいた最後の人はいったい何時食べられたのだろう。築地=お鮨というほど刷り込まれた考え、あんなに混んでいたら、鮨職人も疲れてしまうだろう。はっきり言います。大和鮨も朝6時ごろに行って食べるのなら、美味しいです。お昼頃になったらネタもなくなります。あれほど並んで食べる値打ちははっきり言ってない。お鮨だけじゃないのですよ、天ぷらも焼き魚の定食やさんも長蛇の列でした。手軽なレジャー・ランドなのですね。本来はプロの人が行くところでしたが、この頃は素人さんばかり、従って築地が移転してしまったら、この雰囲気は出ないでしょうね。築地は移転せず、あのままレジャー・ランドで良いではないですか。
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