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佐渡裕さんの司会になるのを楽しみにしていたが、彼はまだ本領を発揮出来ていない感あり。ただ、母は「期待していたのに下手ねぇ」とばっさり。私は言った「そう言ったって彼は指揮者なのよぉ、司会者じゃないから長い目でみてあげましょうよ」と珍しく私は優しい。全盲の辻井伸行さんのピアノ演奏とオーケストラとの競演”ラフマニノフのピアノ協奏曲2番”を演奏した。目が見えないのにどうしてオーケストラと合せられるのだろう。弱冠20歳の辻井伸行さんの演奏に感動。だいぶ前にNYでやはり全盲の梯剛之さんのピアノを聴いて胸が締め付けられるような感動を覚えたが、彼らを育てた親がすばらしいのですね。梯さんは生後まもなく小児癌で眼球を摘出しているにも関わらず、ウイーンに留学、癌再発と闘いながら勉強をしている素晴らしいピアニストだ。このお二人を見ていると、何と言っても親が偉い、の一言。15歳で夜中に家を出て殺されるというニュースを聞くにつけ、親は何をしていたのよ、と怒りを覚える。今は経済も教育も二極化しているのでしょうね。私は少し古いと言われるが、子供は物心付くまで親がしっかりと育てて、多少物が買えなくても、旅行に行けなくても、マンションが買えなくても手元において育てると言う意見の持ち主だから。辻井伸行さんはヘレンケラー財団の援助を受けているとのこと。私はNYでこの財団の仕事をしていたので、懐かしく思い出した。5番街と6番街の間16丁目にこの財団のビルがあり、日本から盲学校の方がいらして見学をさせて頂いたことがある。全盲でもパソコンもアイロンかけも料理も一人で生活出来る様に訓練する施設だった。ここでヘレンケラーが執務したという机も鉛筆が転がらないように周りに少しヘムがとってあったのを覚えている。鳥取の盲学校の方たちとここの理事長さんにお目にかかり感動した。彼も全盲だったが物凄いハンサム&背が高い方だった。世界中からここへ寄付が集まっているそうだ。辻井さんもここで見出されて援助を受けて世界に通用する素晴らしい演奏家になることを祈る。
私は小学校3年生の時北九州から横浜に引っ越してきて、入学したのが白幡小学校だった。その後中学から私立捜真女学校へ行ったので、今日会った人たちみたいに中学、高校と地域密着型ではなかったので、ほとんど覚えている人がいなかった。それでも皆さん一年下の研ちゃんはあの当時から目立っていたよね、と言われたが、私はここでも何かあるとバレエを踊っていたらしく、勉強では覚えられていなかったが、バレエは覚えているわよ、と言われてしまった。その当時大学を出てすぐ私達のクラス担任になった先生も癌を患われてはいたが、いらしてくださり、みんなのことを覚えていて、声が出ないご病気をされたので、筆談だったが、一人の男性は自分のニックネームまで覚えていらして、感動の余り涙ぐんでいた。先生っていいなぁ、こうして55年ほどの年月が過ぎても再び会える機会があって。その篠木先生は小学校の先生として全うされ、その後教育委員になられ、今ではこうして教え子に会える、なんて素敵なお仕事だったのだろう。ただ、現代の小学校はそんなに甘くはないでしょうね。中村君のお母さんと私の母が神奈川学園の同級生で、お医者さんの息子さんだった。まだご健在で、あの当時の方たちは長生きですね。それから後藤君が私の側にいらして、「僕の母が研一さんを5年、6年を教え3年前に亡くなったが、母は大前君を教えたのをとても誇りにしていたのですよ」と言われた。そういえば彼の書物にもこの先生のことを書いていたことがあった。まだ小学校はとりあえず学校に行っていました。学校に行かなくなったのは中学の後半と高校だった。後藤君が家で採点をしているおかぁさんの側で見ていたけど、大前君はいつも100点だったって。だから私の成績が比較対象で苦労したのですよ・・・それでも幹事の方、しっかり卒業写真を持ってきてくださって、ご苦労様でした。行くか、行かないか、迷ったが行ってよかった。みんさんいい年を取っていました。新横浜のプリンス・ホテルで。右の写真はセピア色した卒業写真。
私がNYに住んでいた時からの親友坪田裕子さんが昨日来日されていた。彼女は名古屋に行く仕事でいらしているので、この日を逃すとお会いできないと思いT-CUBOへいらして頂いた。写真は区長とツーショット。彼女はNY、ベルリン と海外生活ベテランだ。2年ほど前にご主人を脳腫瘍で亡くされて、今脳腫瘍の研究者を育てるNPOを立ち上げて、日夜活躍されている。40数年前にコロンビア大学大学院博士課程(PHD)を取られた才女。5ヶ国語を操る凄い女性だが、普段会っていると普通のおばさん。国連に長いこと勤めながら、6人の男の子を育てた肝っ玉かぁさんでもある。私が尊敬する友達だ。
写真のお料理はT-CUBO風ブイヤベース。あきちゃん作。
中国四川省で起きた地震、中国政府発表によると死者5万人と報道されている。今日朝のニュースで被災した人にインタビューをしているのを聞いていると「まるで豆腐のようなビル」「針金のような梁しか入っていなかった」など聞けば聞くほど恐ろしい会話を聞いた。勿論報道が錯綜しているのは認めるとして、私が不思議に思うのはそれでも銀座に中国人の観光客が「ワッハハ」と大笑いしながら、バスから降りてきた。自国にそんな有事なんてなかったように。勿論シャネルやブルガリー、松屋、三越に彼らがあふれていた。どのチャンネルも中国、ミヤンマーの災害に寄付を・・・「それぞれの番号をプッシュすると100円の寄付になります」と言っている。その行為に反対しているわけじゃないのだ。ただ、この寄付がしっかり被災した人たちに渡るという保障はない。ましてやそれぞれの政府は軍事政府である。人的な援助はお断りします、だけど物資はちょうだいよ、って変じゃないですか。国の中を見られたくないのでしょうか?神戸淡路震災の時もアメリカの軍艦が大阪あたりで助けましょうか、と申し出られたのに日本政府が断った例がありますが・・・それにしても見れば見るほど恐ろしい地震の後。5万人が亡くなったとしてもオリンピックは開かれるのでしょうか。マスゲーム(北朝鮮じゃないからないかも)を見ていても、あの地震の跡地が脳裏に浮かび浮かれていられないのじゃないでしょうか。それにしても今日みた中国人の購買欲はすざましいものがあり考えさせられました。あの人たちも一人100円の寄付を・・・お願いしますよ。
Chock full O'nuts,古いアメリカを知っている人はこのメーカーのコーヒーを飲んだのでは?今のスターバックス・コーヒーより街角にはたくさんありました。最近はスーパー・マーケットでもほとんど見かけないメーカーになってしまった。久しぶりに懐かしい缶をみました。今日観て来た映画「最高の人生の見つけ方」でこのコーヒー缶に彼らの骨を入れてヒマラヤへ。ここへたどり着くまでの笑いと泣ける二人の男の生き様を観て来た。人生の最終段階は、今まで出来なかったことを思いっきりやり、腹を割って話せる友をゲットしてお金を使いまくる。ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンはそれぞれ地で演じているのでは?と思うほど嵌っていた。フリーマンの誠実さは私のベスト映画の中の1つ「ショーシャンクの空」でも助演で素晴らしい演技を思い出す。ジャック・ニコルソンは「恋愛適齢期」など軽妙な演技で中年の悲哀をだす、だけど事業に成功しお金持ちという役がぴったり。癌で死んでいく話の割には思いっきり可笑しいし、共感を覚えたが・・・それにしても死ぬとわかってプライベート・ジェットで世界中を旅する・・・こんなおしゃれな男はいませんかねぇ。思いっきり看病してあげます。
日曜日の夜8時は大前ライブ。昨日の番組で「学校に行かなかった・・・」の台湾語版を紹介してもらった。ただ、台湾語なんてプレゼントしても読めないから、もらったって仕方がないが、この番組は世界中でダウンロードして観ている人がいると聞いている。昨日のニュースの中で、外国人の日本滞在ビザで外務省?法務省?は「日本語が上手なら入国のビザを長くする」と言っていた。。。がNYにいると日本の女の子を騙して生活している不良外人も多く、そのような人は日本に来たことがなくても日本語を上手に操る輩もいる。こんな不良外人が入国してきても仕方がないのじゃ。役人も外国に出張する機会があるのだから、ただ、日本語が上手なだけじゃあだめなんだと言うことを学んで来て欲しい。言葉というのはツールだ。それより二つの国籍を認めたりする方が優先なのじゃないでしょうか。聞くところによると日本と韓国だけが二重国籍を認めていないのですって。知人の日本人は国際結婚をして子供たち、孫たちに3重国籍を取得している人もいます。ドイツ人のご主人でドイツ、生まれがアメリカ、おかぁさんが日本、生まれる度に3箇所に登録しています。ここまでしなくても良いかと思いますが、有事の時を常に考えている見上げた根性の持ち主です。有事というのは戦争です。写真のテレビ番組はBBTのライブ放送中の大前です。
先日NYからお客様で、セッチャンのパスタを食べたいと所望されていたので、築地本願寺前で待ち合わせをした。少し早かったので、毎日のように通過しているお寺の中を覗いてみた。と言うのはまるでヨーロッパの教会から流れてくるようなパイプ・オルガンの音が聞こえ、あれぇ?ここはお寺か、と不思議な気持ちで入っていくと、パイプ数2,000本だというオルガンが設置されていた。時々コンサートが行われるとプログラムが準備されていた。パイプ・オルガンはキリスト教の教会だと決め付けていたが、お寺にあると違和感がありあり。築地と言うとお寿司ばかりではなく一度本願寺のパイプ・オルガンを聴きに行くというのも乙なものです。このお寺は何だかイスラムのモスクのようです。ここでの葬儀は有名な方だった場合が多いですが、昔尾崎豊?(私は良く知らないが)さんの葬儀の時は勝鬨橋あたりまで、焼香の人の列が続いていました。私はこの人を知らなかったので、何事?と聞いてしまいました。若い男女が「このおばさん、何言ってるの?」とバカにされました。もう15年くらい前でしたか。
いま、妹から「母の日」という題でメールがきました。昨日の鴨鍋の残りをリサイクルしておでんを作ったらしい。母が「今日は船場吉兆よ」と言ったので妹は「????」分からなかったら、昨夜の残り物の使い回しよ、ですって。90歳!!まだまだ呆けていない、母です。
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