私は小学校3年生の時北九州から横浜に引っ越してきて、入学したのが白幡小学校だった。その後中学から私立捜真女学校へ行ったので、今日会った人たちみたいに中学、高校と地域密着型ではなかったので、ほとんど覚えている人がいなかった。それでも皆さん一年下の研ちゃんはあの当時から目立っていたよね、と言われたが、私はここでも何かあるとバレエを踊っていたらしく、勉強では覚えられていなかったが、バレエは覚えているわよ、と言われてしまった。その当時大学を出てすぐ私達のクラス担任になった先生も癌を患われてはいたが、いらしてくださり、みんなのことを覚えていて、声が出ないご病気をされたので、筆談だったが、一人の男性は自分のニックネームまで覚えていらして、感動の余り涙ぐんでいた。先生っていいなぁ、こうして55年ほどの年月が過ぎても再び会える機会があって。その篠木先生は小学校の先生として全うされ、その後教育委員になられ、今ではこうして教え子に会える、なんて素敵なお仕事だったのだろう。ただ、現代の小学校はそんなに甘くはないでしょうね。中村君のお母さんと私の母が神奈川学園の同級生で、お医者さんの息子さんだった。まだご健在で、あの当時の方たちは長生きですね。それから後藤君が私の側にいらして、「僕の母が研一さんを5年、6年を教え3年前に亡くなったが、母は大前君を教えたのをとても誇りにしていたのですよ」と言われた。そういえば彼の書物にもこの先生のことを書いていたことがあった。まだ小学校はとりあえず学校に行っていました。学校に行かなくなったのは中学の後半と高校だった。後藤君が家で採点をしているおかぁさんの側で見ていたけど、大前君はいつも100点だったって。だから私の成績が比較対象で苦労したのですよ・・・それでも幹事の方、しっかり卒業写真を持ってきてくださって、ご苦労様でした。行くか、行かないか、迷ったが行ってよかった。みんさんいい年を取っていました。新横浜のプリンス・ホテルで。右の写真はセピア色した卒業写真。
ここに昔のクラスメイトや初恋の人を思い出させる歌がアップされています。同窓会やクラス会にぴったり。
http://music.geocities.jp/ntmusicstation/index.htm
歌詞は ふるさとの 友よ 懐かしい 学び舎 あれから 幾年月過ぎたのだろう 思い出すよ あの頃 アルバムの中の君が セピア色にかがやいている・・・
投稿情報: つち | 2008年6 月11日 (水) 11:43