自宅から実家までちょうど1時間、この間が私の読書タイム。少し古くなったがリリー・フランキーの「東京タワー」の最後の50ページほどを読むつもりで電車に乗りました。この最後の50ページが泣かせる、泣かせる、日比谷線でハンカチを出してすすり泣いてしまって、思わず周りを見回したら、周りの人が「何事??」という不安な顔で私を見ているではないか。恥ずかしほど泣いていたのです。読むのをやめてしまいました。
ところが・・・いつものように母がお昼寝中妹と銭湯に行って気持ちよく帰ってきて準備していたお鍋を缶ビールなど開けて楽しんだ。そこまでは何事もなく3人で楽しく夕食をとり、後片付けの時、何が何だかわからなかったが(私は週に一日しか行かないから)母と妹が言い合いをしている。よく聞くと本当にくだらないこと(私に言わせると)ゴミ袋を妹が決めたところから勝手に変更しているという。「おかぁちゃまは何でそんなことするのよ」「あら、私の家だから何をしてもいいじゃない」てな具合。そんな時私はその中に入らない。私も相当なおせっかいだから普通なら何とかいうのだが、この二人の仲は入らないことにしている。
親ってかって大きかった存在が年を取るにしたがって小さく感じる瞬間がある。私達3人の子供たちのために生きてくれた人。93歳になった母が今糠づけを漬けている。お昼に食べたとき「おかぁちゃま、糠づけ美味しくなったわね」と言ったら、知らないうちに大根の糠漬けが1本私のハンドバックに入っていた。電車で「何か匂うなぁ」と思っていたが、まさか糠漬けを入れいてくれたとは。母が生きていることが普通になっている私たちは少し麻痺しているのでは?今日「東京タワー」を読んで、”ぼくの「オカン」が生きているとき「ありがとう」と言ったことがあるだろうか。小さなこと、大きなこと、毎日のことやこれまでのこと。その一つづつに言うべき感謝の言葉も、それはいつの間にか当たり前のことになっているのでは。これまで苦労させたことも、迷惑かけたことも、ほったらかしにしていたことも、ひとこと「ありがとう」も言えないまま終わるのではないか”というくだりがあるが、妹と普段仲良く暮らしている二人だが、ゴミ袋くらいで喧嘩することもなかろう。楽屋は黙って引き下がってきました。
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