朝8時に土曜日恒例の白楽へ。妹が3時からダンス選手権大会がテレビであるので、それを観たいから今日のお風呂やさんは12時から行きたい、と。早お昼を食べて二人で東白楽の銭湯「徳の湯」へ。その間母はお昼寝。いつもは3時ごろ出かけるお風呂が今日に限って繰り上げたのだ。垢すりや髪を洗って、最終段階二人特製のパックを付けて露天風呂の椅子に座って乾かしていた。「そう、そう、クロチャン(私の女学校時代の親友)のおかぁさんが先週92歳で老衰で亡くなったんだって」と妹に話している最中、「大前さんっていらっしゃいますか」と銭湯のお姉さんが呼び出ししているではないか。「どきん」胸が潰れそうになった。母に何かあったんだ。私は長女。頭の中は「きっと警察からの電話だ」はたまた「娘が今日成田からNYへフライトしているので墜落か」「家が火事」ありとあらゆる事が頭を巡った。乾かしていたパックを一目散に洗い流し、濡れたまま洋服を羽織り、1階の番台へ。いつも愛想のないおじさんが、「大前さんですか」と受話器を渡してくれた。その間私の胸は破裂しそう。「伶子!!研ちゃんが今湘南の当たりにいるのだけど、白楽に寄って、みんなでご飯を食べに行こうって、すぐ帰ってきて!!」なぁんだそんなこと・・・私はへたり込みそうになりました。警察、火事、墜落と悪いことばかり考えていたので・・・・まぁ、そんなことなら待っていてくれればいいのだから。ただ、妹と何故この「徳の湯」を指定して電話できたのよ、不思議??しかも私達ですら電話番号なんて知らないのに・・妹は「おかぁちゃまって私の友達からの電話聞こえないと言って切っちゃうのよ」とか携帯電話は聞こえにくいから嫌いだとか、電話にまつわる愚痴はいつも聞いていたので、「なによぉ、ちゃんと一般人としてやれるじゃない」「でも、いくら104で聞いたとしても、徳の湯と言えたとは思えない」というのが二人の一致した意見だった。なにはともあれ家に急いだのは言うまでもない。母にとってはケンチャンが一番だから、何とか知らせなくてはと思ったのは分かる。妹はいつも一緒に暮らしているから、(言葉は悪いですが)愛情を込めて「ああいうのをくそばばぁて言うのよ」。「やればできるじゃない、出来ないと言えば私がやってあげるから普段は甘えてるんだ」て。家に帰って聞いた、「どうして徳の湯が分かったの?」「110に電話したら、電話番号は104ですよって親切に教えてくれたのよぉ」そしたら?「東横線東白楽駅の側のお風呂やさんをさがしてください!」と言ったら「あの番号をくれたのよ」ですって。スーパーマーケットはない白楽だが、お風呂やさんは2,3軒あるのにちゃんと私達がいたところに命中。すごい確率でした。研一夫妻が到着した時は母の手柄?家に着いていました。まだ、まだ頭がしっかりした90歳でした。久しぶりに5人で中華街の華正楼の中華料理を食べにいきました。息子と食事をする幸せそうな母を見ながら、後何年こうして母と食事に外に出られるだろうか、と涙ぐみそうになった。
いやはや、良かったですねー
お母様は、きっと毎週を楽しみに
されていますよ。
わたしも一昨年、母を亡くし
年が過ぎるごとに後悔しきりです。
お母さまがお喜びになるだろう?こと
沢山して差し上げてくださいね。
ツマラナイと自分が思うことこそ
また面倒だと思うことこそが
「親孝行」カギです。
わたしが唯一した口先親孝行は
「お母さんは、86才と思えない!
キレイねー」
「どうして、しわやタルミがないの?」
を必ず連発!
(本当にシミ・タルミ・しわの無い顔
だったのです)
先に亡くなった父は
「智子は、シワの出来にくい顔立ち」と
よく言っていました。
わたしと同じ柄で何着も洋服を
つくったこと。
コッソリ「ヒレステーキ」を差し入れ
したこと。(糖尿病はスゴイ食事制限)
ステーキ・トロが、大好き人間。
だから糖尿病になり、合併症で
心筋梗塞・・・
「エッ、わたしに派手じゃないの?」
「そんな事ないわよー」
その時の嬉しそうな母の顔(*^。^*)
それでも今は後悔しきり。
78才~86才まで、1日おきの透析
母を大切に愛してくれた24時間
対応の明子ちゃんに任せきり。
この明子ちゃんの「無償の愛」が母の
闘病生活に光を与え、生き長らえさせて
くれました。
18才から27才まで青春を捧げて
くれる女の子って居ないと
思いませんか?
明子ちゃんが母を見てくれたお蔭で
わたしは安心して活動が出来ました。
奇跡のめぐり合わせです。
そのために、わたしが守ったことは
車を飛ばして1時間内で帰れる所しか
一切、9年間、行かなかったのです。
おこがましいのですが
れいこ様の、お母さまのお顔と
母の顔、とても似ています。
今度、写真を持ってゆきますね。
(76才のときの写真)
投稿情報: やす子 | 2008年7 月 6日 (日) 00:15