皇太子殿下がご臨席されたブラジル移民100年、感無量に感じている。というのも父の叔父は数年前に亡くなったがハワイに移民して、蘭園を経営していた。ハワイに行くと必ず寄るのだが、英語も日本語もどちらも完璧ではない、もどかしい話をして来るのが常だった。父は大前蘭園と言えば知らない人は居ないと言い切っていたが、マウイ生まれの叔母さんと結婚してハワイ語で話していた。それでも蘭園が成功していたので、朝早く蘭の花を花屋に収めると、ランチの後は家のプールで泳いでその後昼寝という生活をしていた。昔研一の本が英語に翻訳されたので彼らに上げたが、名前くらいしか読まなかったのでは。それでも父が亡くなったと知らせたら「ハワイに住んでいたら空気がいいからもっと長生きできたのに」と言われてしまった。その叔父は太平洋戦争が始まったのをこの丘で知ったと私を連れて行ってくれた。収容所生活後あんなにハワイが観光地になり日本人がわんさと来るようになって、彼はどう思っていたのだろう。100歳で亡くなったが、マウイ生まれの叔母さんはフイリッピンのナースに面倒をみてもらってまだ存命だった。果たして彼らは移民して幸せだったのだろうか?元々アメリカは移民国、NYに行くと必ず行く「エリス島」が忘れられない。ブラジル、ペルー、メキシコ、アメリカへ日本人がたくさん行っているのです。メキシコの友達はお父さんが鉛筆の技師だったからメキシコへ行ったと聞いたことがある。このメキシコの方は日本人よりきれいな日本語を話していて「何てきれいな日本語なんだろう」と改めて自分の日本語の乱れに恥ずかしくなっていた。彼は日本語、英語、スペイン語を美しく話していたのが印象的だった。
れいこ様のブログを拝見して
数日ですが私は学校の
教科書で学んだ位の記憶しか
ない歴史を思い出します。
ご親戚の皆様も超!バイリンガル。
大前家様のお家からは国際的に
活動される「血」の一族を感じます。
そもそも家族、及び近い親戚のことを
考えると確かに・・・書くこと一杯です。
ハワイで蘭園経営の叔父様のお話を
読ませていただいて、私の親戚では?
と、改めて考えました。
「ハワイ」では大きな関連を感じます。
下記は
「わたしのブログ?」になって
しまいそうです。
母の父(祖父)は浄土宗の僧侶でした。
今も川崎に寺はあります。
母の妹がご主人と継いでいます。
現在は従弟が手伝って、お坊さんを
しています。
祖父は知恩院役職も川崎で
寺経営をしながら勤め、法然上人
800年祭の導師を務めました。
その時、私たち家族も京都の知恩院に
行きました。
日本がハワイ・ロスに浄土宗・布教
キッカケは祖父が大きく貢献。
1ドル¥360円時代、祖父はよく
ハワイやロスに出かけていたとの
ことです。
最初の、ハワイやロス帰国後
寺・生活なのに暮らし方が一度に
「おふとん」から「ベッド」の洋風に
変わったそうです。
祖父は、とても私を可愛がって
くれました。
その理由で主人との式は、ハワイの
教会ではなく「浄土宗寺院」で式を
挙げました。
ハワイ大学で学んでいる若い
お坊さんが親切に面倒を見て
くれました。
ロスでも浄土宗の若いお坊さんに
お世話になりました。
祖母も83才まで一人でハワイ・中国
台湾と旅行好きな人で、今も祖母の
「おみやげ」台湾ヒスイの仏像&香炉を
大切に持っています。
私より勇気のあった祖父母・・・
父の父(祖父)も満州や韓国で
エンジニアを務めた体の大きな
人でした。
かすかに祖父のコートの手触りや
匂いを今でも覚えています。
素材は今で言うと、しっかりした
厚手の「カシミヤ」
匂いは枯葉っぽい匂い。
亡くなった父は早稲田大卒で
26才て今で言う起業した人です。
満州なども訪れビジネス!
米国との戦争勃発で帰国。
軍需産業(飛行機の部品
三菱の下請け)に取り掛かり
母と結婚。
メリットの大きさは、軍需関係
ビジネスのため徴兵されなかった
そうです。
母が川崎から名古屋の人と何故
結婚したか、理由は当時、フォードの
車を持っていた!
会社経営をする若き社長さん!
車に釣られて結婚したそうです。
娘が言うのも変ですが、父もやはり
体が大きく(水泳選手だった)見栄えの
良い男性でした(身長・178cm)
父の自慢は19才のときから体重が
変わらない(75Kg)ということでした。
その父母も既に他界。
今も父母が生きていれば父は96才。
母は90才。
何だか悲しくなって参りました(-_-;)
れいこ様、お元気なお母様を大切に
されてください。
ひょっとして私の母と同年では?
母は大正7年生まれです。
やはり「ブログ」になってしまいました。
お許しくださいね。
投稿情報: やす子 | 2008年6 月29日 (日) 20:58