今から45年前丸紅飯田(当時の会社名)に入社して2年目に写真の真ん中の彼が入社してきた。あれからかれこれ半世紀、今彼はテキサスの州都オースチンに一人で住んでいる。近くにはテキサス大学があって若い人達が沢山遊びにきてくれるらしいが、それにしても淋しいだろう。私の後輩チーチャンと彼の宿泊先横浜ニューグランドホテルにお訪ねした。お天気がよくニューグランドの中庭で揃って写真を写したが、彼の容貌はキューバのカストロかミッキー・カーチス、はたまた内田裕也ばりのREONのちょい悪オヤジ風、ポニーテールとアゴヒゲ、これがまた良く似合うんだなぁ。普通サラリーマンが定年になると寝巻き起き巻きのようなスエットで過ごすと聞き及ぶが、彼のおしゃれ具合は一つ間違うと「キザ」になるのにね、と私たち二人の合致した意見、「若いときからあんなに素敵だった?」と点数が高いのだ。ニューグランドでお茶をしてから、中華街に行ってこのメニューの選び方も「何てスマートなの?」感心しきり。まず、私たち二人に好きなものを一品ずつ選ばせて、それから彼が「あわびのクリーム煮と北京ダックを・・」これは私たちが遠慮しないように、女心をくすぐる。なんでもさりげなくなんです。お食事が終ったら「これから二人に見せたいところがある」とタクシーで岸根の森林公園に。ここは横浜の桜の名所で、それはそれは美しかった。3人で芝生に座って昔話に花が咲いたが、間違っても来年桜を見ながら「去年は3人でここで桜を楽しんだのに・・・残念だね、一緒に見れなくて」なんてことにならないよう元気でいましょうねと励ましあった。その後タクシーで元町まで行き、彼が気になっていたお茶屋さんに行って九州の八女茶を楽しんで再会を誓ってお別れした。チーチャンと帰りのみなと未来線にのるやいなや、「何故、彼があんなにスマートなんだろう、アメリカに住んでいるだけじゃないよね。彼のもって生まれたキャラクターとその後の彼の人生であんなにも魅力的になったんだろうか」と渋谷に着くまで話題が途切れなかった。彼はNY駐在が二回、カサブランカ、オースチンと20年以上海外生活をしたけど、ただ、海外生活をしただけじゃない”何かが”あるんだな。初めてのNYの時は元主人の部下だったので同じ頃NYのホワイト・ストーンブリッジの近くに住んでいて、研一がMITの学生でよく一緒にバーベキューなどした思い出話に花が咲く長い長い友達だ。元々私が20歳のころ当時丸紅は大手町ビルにあり、彼は野毛に住んでいて横浜駅の湘南電車のホームで「君、丸紅だろう、一緒に行こう」とナンパしてきたんですよ。それから毎朝東京駅でコーヒーを飲んでから会社に行っていた仲なんだけど、今思うとけっこうトッポカッタので警戒していたんだなぁ。彼は茶色が好きでいつも茶のスーツを着ていたので、今回その話になって「よく覚えているなぁ」と言われてしまったが、こうしていい友達って宝物なの。もうこの年になると男も女もないもの。彼は丸紅のステーブ・マックインと呼ばれていたがそういえば丸紅のアラン・ドロンもいたなぁ。あの頃、こんな呼び方していたんだ。まさか女性に男性が丸紅のオードリー・ヘップパーンとかイングリッド・バーグマンなんで言ってたりして・・・・そんなこと絶対にないよ。結構泥臭い会社だったから。
コメント